2004.03.27

西田幾多郎記念館と京都の「陶板名画の庭」 


安藤忠雄つながりで石川県西田幾多郎記念館と京都の「陶板名画の庭」をアップ。

西田幾多郎記念館公式HPはこちら。 石川県(彼の出身地)にあり。この記念館は安藤忠雄による建造物。

記念館の写真がいっぱいある、素敵なサイトがありました→関西建築見学会: シンプル&ビューティーで情報量の多い素敵なHP。

※ちなみに写真は京都北山の「陶板名画の庭」です。
陶板名画の庭は星★3つ→陶板名画の庭の公式HPはコチラ。
非常にキツいデザインの公式HP!このHPを見ると行く気を無くすかも、、、。
でも実際の美術館の建物、そして陶板で出来ている絵画のレイアウトはとっても良かった。
音が「とても」響く造りになっているので、なるだけ人がいない時が(っていつも空いてる。)いい。
特に晴れている日がお薦め。まったくの屋外建築物なので、冬は寒いですよーー。

水が建物のそこかしこに流れていて、初夏に行くと爽快!!
ま隣が京都市立植物園なので、みなさん結構セットで訪れてます。(かく言う私もそのひとり。)

植物園は鴨川に接してる。つまり春は鴨川沿いの桜も植物園側からだって見れます。
この植物園、広大な敷地なので、1日十分楽しめます。
敷地内にグランドみたいな大きい公園もあって家族連れがのんびり出来る場所。

京都を含む関西は安藤忠雄さんの出身が大阪だから建築物おおいですよね。
京都も北山に1つ、三条に1つ、大山崎にも1つありますが、また次回にでも写真があるのだけアップするかも~。
(しかし哲学の道には関係ない!)

記念館情報はmuse-A-museさんに教えてもらいました。哲学ブログです。
※石川県の記念館には行った事がないので感想書けません。すいません。行った事のある方、是非どんなところかコメントによろしくお願いします。

評価:★★★

光の教会―安藤忠雄の現場
平松 剛

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3月 27, 2004 at 03:10 午後 in ・哲学の道に関すること,  |---西田幾多郎 | | コメント (2) | トラックバック (0)

2004.02.25

“哲学の道”は津軽に通ず!?衝撃の婚姻関係 

「常陸宮華子妃の実家、津軽家。 “哲学の道”は津軽に通ず!?
そして、香淳皇后の実家、久邇宮家と細川護熙元首相、細川侯爵家」
という題で家系図が紹介してあるサイトはこちら系図で見る近現代                         (ちなみにトップページはこちら。他にもいっぱい系図があります) 

常陸宮華子妃というのは、今の天皇の弟と結婚した津軽家出身の人です。

華子妃の姉妹である泰子と西田幾多郎の孫が結婚してるんですよねーーー。

そして孫の幾久彦自身は(財)日本ゴルフ協会理事、元東京銀行常務。

西田幾多郎自身は軍に巻き込まれたり、戦後は戦犯まがいの記事も書かれ、妻も子供2人も亡くしたり、若い頃は目の病気になったり、実家が没落して就きたい職業につけなかったりと、なかなか大変な人生を過ごしたようですが、お孫さんはなかなかの人生を過ごしておられるのではないだろうか。




2月 25, 2004 at 09:15 午後 in ・哲学の道に関すること,  |---西田幾多郎 | | コメント (0) | トラックバック (0)

西田と東条英機の意外な関係 その2 

その1からの続き。

さて、その後彼がどうなったのか。略歴と一緒に紹介します。

略歴紹介

明治3年石川県に生まれる
明治19年[16歳]地元の旧制第四高等学校に入学:この時代に鈴木大拙(後に世界的な禅学者となる)と同級。生涯仲が良かった。お墓も同じ鎌倉東慶寺。(3つに分骨した1つで他にも京都の妙心寺にもお墓アリ。)

明治24年・[21歳]東京帝国大学文科大学の哲学科選科に入学:選科の学生は図書館であっても室内に入れないという制限された資格しかないものだったので、廊下で読書するしかない。といった屈辱を味わう。この間に生家が没落。

明治27年・[24歳]東大を卒業し、それから郷里の中学の分校で教師に。旧制四高から山口高へと地方を転々としていた教師時代、妙心寺の僧堂で禅の修行をするため京都へ

明治42年・[39歳]参禅のかたわら哲学の研究を続け認められ学習院教授に。東京に住むが1年で退職
明治43年[40歳]京都帝国大学文科大学助教授に。
明治44年[41歳]で代表作の『善の研究』を出版。
昭和3年[58歳]京都大学を定年退職し鎌倉へ。
昭和6年[61歳]満州事変
昭和8年[63歳]鎌倉市極楽寺姥ケ谷に住む。
昭和14年[69歳]第二次世界大戦始まる。
昭和15年[70歳]文化勲章を受ける。しかし時代が時代だけに知る人は少なかったそうだ。
昭和20年1945年[75歳]死去。世界大戦終了。

善の研究
西田 幾多郎

アマゾンの読後感想のレビューを見ると、だいたい彼がどういう思想を打ち出そうとしていたのか、がわかった気がしました。

2月 25, 2004 at 08:59 午後 in ・哲学の道に関すること,  |---西田幾多郎 | | コメント (0) | トラックバック (1)

西田と東条英機の意外な関係 その1 

「人は人吾はわれ也  とにかくに吾行く道を 吾は行なり  寸心」とある。(寸心という名を禅寺でもらい、寸心先生とも呼ばれていた。)
「哲学の道」は哲学者・西田幾多郎(1870~1945)が散歩していたことに由来。
彼が凄い人だと思うのは、皆が西洋哲学を輸入し分析する中、西田哲学・京都学派と呼ばれる独自の哲学を打ち出したところだ。禅寺では、とことん「考えるな」と言われ、西洋哲学では「考えろ」と言われる。この相対する教えの中で苦悩しつつ、東洋哲学と西洋哲学を融合させる。それが西田哲学だったらしい。
戦前戦後は軍や政治、戦争に巻き込まれ大変だったようだ。それがわかる記事を読売新聞・関西おもしろ文化考より一部以下に抜粋しました。『 戦後は一転、[戦争協力者]のレッテルを貼られる。 西田については、ジャーナリスト大宅壮一が「文芸春秋」1954年6月臨時号に、ある暴露記事を書いた。日本の戦争方針の根本となる大東亜会議共同宣言というものが1943年、東条英機によって発表されている。その草案を書いたのが、実は西田だったというのだ。
 


 真相はこうだ。確かに西田は、宣言の下敷きとなる「世界新秩序の原理」という文章を書いた。だが、その内容は、東条らには難解すぎた。そこで御用学者がやさしく書き直し、ついでに「聖戦」や「日独伊枢軸」などの言葉を勝手に挿入したのだ。
 
 その内容を知った西田は、和辻あての手紙で「失望いたしました。あれでは私の理念が少しも理解せられてゐない」と嘆いている。

 それにしてもなぜ書いたのか。 当時、軍のファシズム的戦争指導を批判していた西田が憲兵隊に逮捕される。という噂があった。そこで軍や政界に太いパイプを持つ矢次一夫が「軍が哲学者の教えを請うている」といって西田を呼び出し、東条の右腕で、陸軍軍務局長の佐藤賢了に引き合わせたうえ、身の安全を保障させたのだ。』
続きを読売新聞にて読みたい方はクリックして下さい。


さて、その後彼がどうなったのか。次の投稿で略歴と一緒に紹介します。

2月 25, 2004 at 08:44 午後 in ・哲学の道に関すること,  |---西田幾多郎 | | コメント (0) | トラックバック (0)